5/14/2008

曼荼羅

こんにちは。
ミャンマーのサイクロンにつづき今度は四川の大地震、胸の痛むガネーシャ店長です。(>_<)
胡錦涛さんがパンダを貸すと言われたとき、ワシは福田首相に代わって「そんなんいらねぇ!」と言ってやりたい衝動にかられた。
ワシは別段のパンダ好きだ。
都合の良い外交パフォーマンスにパンダを出すこたぁ〜ねぇ〜だろがっ!って、パンダが好きだからこそ、やり口の汚さに辟易する。
そのパンダの臥龍保護研究センターは中国四川省にある。
中国四川省アバ・チベット族チャン族自治州ブンセン県付近を震源とする、マグニチュード7.8の大地震が起た。
被災地の方もホントにお気の毒だ。
センターはブンセン県から60kmほどしか離れていない。
心配だ〜パンダ。。。
パンダも心配だけど、少数民族の方々も心配。
漢民族の人たちと同じように救済してもらえるんだろうか?援助してもらえるんだろうか?いろいろ心配。
中国に住む人たちはみな中国人だけど、私達が思い浮かぶ中国人はほとんど漢民族の方だ。
オリンピックのおかげ(?)で、中国にもチベット人がいるんだって知った人もいるでしょう。
チベットの他にも多数の民族が混在しているんですよ。
でも人口の割合でいうと少数派ゆえ、まとめて少数民族扱いとなっています。
平等に救済してあげてくださいと心から願うことしかできない。
募金をしようと思うのだが、ミャンマーも四川もホントに平等に募金効果が行き渡るのか、そこんところも心配だ。
でも、自分で現地に行けるわけでもないし、行けても何の役にも立たないと思うから、せめて心だけでもお金に変えて届けてくれるのなら、心配するより募金した方が良いね。
ユニセフか?赤十字か?人助けに迷いが生じるほどアホなワシだ。
「迷ったならどちらにもって思わんかいっ!ボケェ〜!!(-.-#)」って、心の中の天使がそう囁きました。
ガラの悪い天使を持つ身なので偉そうなことは言えませんが、「お気の毒に・・・」と思う気持ちを行動に移してみませんか?


さてさて、今日の画像は手書きの曼荼羅の中心部分。
曼荼羅はそんなに大きいものじゃありません。
35cm×50cmほどのものです。
店番中のワシがいる後の壁にピンで留めてまります。
(有り難い感が損なわれてないかい?って、よく指摘されますがココが気持ちいいんです)

先日、高野山へ行った時のことです。
ワシはハンディキャップのご身分なんで、靴を脱いだり履いたりする時は座るか支えがないと難しいです。
金剛峯寺は、靴を脱いで中を拝観します。
入る時は空いていたのでよかったのですが、ワシが出ようとした時はなにやら四国のお遍路帰りのじ〜さんやば〜さんで混み混みになってました。
ワシの常識の尺度でいえば、出入り口は出る人優先にした方が混雑しないと思うんだよね。
エレベーターとかってそうじゃない?
だからワシを速やかに出させてくれればいいのに、じ〜さんやば〜さんは我先にと強引だ。
お遍路帰りとわかったのは、みなさん、ハイキングや登山に使うような紐靴を履いていたからだ。
紐靴を脱ぐのにドッカリ座りたい気持ちはよくわかる。
だからこそ、出る人を優先にした方が自分もゆっくり出来ていいんじゃないかい?と思うのだが、じ〜さんば〜さんは絶対に引かない。
ぐいぐいと強引に入り込んでくる。

ワシは思ったね。
 何のためのお遍路だかぁ・・・?ってね。
 スタンプラリーの延長じゃないの?ってね。

去年の秋、インドでも同じような気持ちになったことがある。
サールナートで休憩していた時、「同行二人」の羽織りを着たワシと同年代くらいの男の人が声をかけてきた。
「インドどうです?何もいいとこないですね!次どこ行きます?」
あなたはどこ回ったんですか?と尋ねると、カルカッタからブッダガヤ行ってサールナートだそうだ。

ワシは思ったね。
 何しに来たんだよ?インドへ。
 何をそんなに怒ってんだよ?
 わざわざそんなこれ見よがしの羽織り着てさ。
 ブッダの道を歩きたいのはわかるけど、意味ないだろがっ?

リシュケシュのヨガアシュラムに宿泊した時のこと。
先生達ってやっぱスゴイっすね!
そんな気軽な話をしていたら、これまたワシと同年代くらいの男の人で、日本でヨガインストラクターをしている人が言った。
「でも、アサナがきまってるからって彼らが悟りを開いたわけじゃないでしょ?」

ワシは思ったね。
 悟りってアンタ・・・・
 ほいじゃ悟るためにヨガしてはるの?
 何を悟りはるの?

いろいろ...<;O_o>の連続技だ。

お遍路をただやっただけで良い人になるわけでもないし、ブッダの道を歩いたからといって良い人生を迎えるわけでもないし、ヨガ頑張ってるからって偉くなるわけでもないし、悟ったからといってだから何だ?って感じだ。
良い人生ってなんぞや。
良い人ってなんぞや。
悟るってなんぞや。
根本的に向き合う核心を無視してそれぞれ行を続けても、それはただのスポーツでしかないんじゃないか?と意地悪なワシは思う。
だって、それなら体が不自由な人は誰も良い人生も送れんし、良い人にもなれんし、悟ることすらできなくなっちゃうじゃん。
ガラの悪い天使を持つ身じゃまともな人間にはなれんちゅーこった。
そんなこたぁ〜ねぇ〜だろがっ!(-_-;)
お釈迦さんはそんなこと言っとりゃ〜せんがな。
どなた様もかけがえのない命の存在なんだからさ。

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