11/25/2009

仏像から見えたこと

どうもですぅ。
まだまだ続くガネーシャ店長の毒舌。

石山寺では、秋のご開帳でご本尊如意輪観音様を拝むことができた。
いろんな観音様がおわしますが、ワシは如意輪のポーズが一番好きだ。
御利益は「意のままに願いを叶える」だそうだが、ホントかどうかはさておき、ほおずえをついたような「で、なに?」的な気怠さが漂っているように見えるユルい感じがとても好きだ。
ワシが見た中で一番の気怠さは中宮時の如意輪様だ。
ウィキペディア的に言うと、右脚を左膝に乗せ(半跏)、右手を頬に当てて考えるポーズを取る(思惟)、典型的な半跏思惟像である。
でも中宮時の如意輪様は弥勒菩薩として造られた可能性が高いそうだけどね。
室生寺の如意輪様もなかなかの優雅な気怠さをたたえてイイ感じだ。
「願いを叶える」という御利益に群がる世の衆生のどうでもいい願いを次から次へと聞くわけだから、こんなポーズでなきゃやってらんないわ〜みたいな感じがとても好きだな。
そんな視点で仏像を見るのはワシくらいなもんかもしれん。
世の中の仏像好きは、どんな所を見てハッとしてグーなのかわからんけど、ワシはこんな低い視点でも十分ハッとしてグーなのでお許しいただきたい。

こんなワシなので、興福寺の阿修羅像人気にはとても驚いた。
そんなに行列までなして「阿修羅さま〜!」と涙する人たちに驚いた。
確かに阿修羅像はイイよね。
でも、ワシは萩尾望都先生の「百億の昼と千億の夜」のアシュラに萌えた少女期を過ごしたので、イマイチ本物の阿修羅像に萌え感がない。
仏像は全然嫌いじゃいないけど、いやむしろ好きだけど、でもガンダーラの彫りの深いお顔立ちのイケメンが好きなのでインド国立博物館で見た仏像の方が涙するほど素敵だった。

ここまで書いて気がついたのだが、畏れ多くも仏像に、自分の男の趣味を反映して好きだの嫌いだの物申すのは、とんでもなく罰当たりであり、高尚な視点から仏像を見る愛好家からしてみれば、一緒にしないでいただきたい!と思われても仕方ない。
ワシの仏像好きは、戦国BASARAのイケメンフィギュアから入ったにわか歴女と変わらないかもしれない。
でもね、にわか歴女でも興味を持って歴史を勉強する人だっているじゃん。
にわか歴女が本物の歴女になるならそれでいいと思うのよ。
何かに興味を持ったら本物や本当が知りたくてフィールドが広がれば、それは楽しいことだと思うよ。

ワシがつまらんなぁ〜と思うのは、例えば、仏像を見ても仏教の教えを知ろうともしない人。
他人がお参りをしている横で、大きな声で般若心経を唱えるじいさん、ばあさん。
同行二人のお四国巡礼の後、金剛峯寺の下足場で、我先にと順番が待てない人。
ダライラマ猊下のお話の後、くだらない質問をする人々。
金運アップを願って天珠を買い求める人。(あえて天珠と表現させてもらいました)
自分と向き合うこともせず、パワースポット巡りをするスピリチュアル信望者。
御利益と浄化ばかり気になる自称パワーストーン好き。
本題や本質や本物とは著しく反れたところで欲を満たす行為に励むのは、いかがなもんかと思ってしまう。
せっかくの機会を勿体ないことだと思うし、つまらないと思ってしまう。

でもね、世の中ってそんなもんじゃない?

つまんねぇ〜と思うワシが正論ではないし、個人的につまらないと思うだけのことであって、どっぷり浸かっている側から見れば、それは結構必死な事だったり、大事な縛りだったりすることの方が多い。
必死だったり縛りだったりするから尚のこと励むわけだしね。
つまんねぇ〜と思えるワシ自身も、そんなことはくだらないという縛りに縛られているのかもしれんよね。
まるで事業仕分けの仕分け人と省庁だね。
まぁ、ワシの場合、いずれにおいても少数派の方に身を置く場合が多々あるというだけのことかもしれません。

「人ごときが何を〈意のまま〉にだい?」
そんな風にほおずえをついているように見えてしまう如意輪観音様にしてみれば、どちらも一緒なのでしょうね。
自分と違うからと反発するのではなく、相手を受け入れる程の優しさが大切なんだと思う今日この頃のガネーシャ店長でした。(^^ゞ

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