9/30/2010

Antique Tibetan Coral

こんにちは。ガネーシャ店長です。
昨日とはうって変わって本日は雨の東海地方。
みなさんの所も雨でしょうか?
秋の長雨と初夏の梅雨と、どちらが降水量って多いんだろうね?
あとでググって調べてみよう。

さて、今日はネパールで見つけたアンティークのチベタンコーラルの画像です。


大きいですねぇ〜!!
赤いですねぇ〜!!
しかも2粒セットのように揃ってますねぇ〜!!!
かなり別嬪さんな美珠ですねっ!!!!
真ん中のdziももちろんアンティークです。
シンプルに赤い紐に通したチベタンスタイルでワシの首にぶら下がってます。
v(・_・)
つくづく思います。
ホントに「ご縁」だよなぁ〜って。

本当はお客さまからのリクエストでアンティークコーラルを探していた。
その店の主人とも付き合いが深いので、私たちの意向をくんで在庫をたくさん見せてくれた。
よさげなものはあったのだが、今回は見送ることになった。
じゃ、別のリクエストを探さなくちゃと街を徘徊することにした。

カトマンズには4日滞在したのだが、ニマの店は初日から閉まっていた。
チェンマイでニマのママが天に召されたという話を聞いていたので、きっとお葬式だのなんやかんやで忙しいのだろうと、店が開いていなくても当然のように思っていた。
ニマの実家はネパールとチベットのほんとにボーダーの村だ。
チベット式のセレモニーは時間を要する。
それに、ニマがカトマンズにいる確率はいつも低い。
アンティークのディーラーなので、自分が国外に行商に行く方が多いのだ。
良く考えてみれば、ニマに出会ったのもチェンマイだった。
カトマンズに店を出したから機会があったら寄ってみてと言われ、何度もカトマンズに行っているが、1度しか店で会ったことがない。
チェンマイで出会う確率の方が高い男なのだ。

リクエストを探して徘徊中に何気にニマの店の前の通りを歩いた。
「あれ?ニマんとこやってんじゃん?」
店と言うより、小さな小さな空間にチベタンアンティークの小さな家具やカーペットや置物が雑多に置いてある倉庫みたいな所だ。
「ホントにやってはる?」薄暗い店の中を覗くと、奥の椅子にニマが座っていた。
私たちを見て驚いていた。
私たちは挨拶とお悔やみの言葉を述べた。
ニマはチベット仏教徒らしく、心から親愛の情を表してくれた。
「ちょっと見る?」
ニマは手持ちのチベタンアンティークを何点か見せてくれた。
どれもこれも「おぉっ!」と、グッとくる逸品そろいだ。
その中に、赤いコーラルとトクチャが数点あった。
ウチの旦那はここ数年、トクチャ萌えだ。
しかし、彼が言うには、まだまだ勉強中なので今はすでに持っているもので我慢だそうだ。
ならば、今回は予算もあることなのでコーラルを2粒。
それが今、私の首に下がっている。

もちろんdziもあった。
とても良いdziだった。
大きさも質感も素敵な二眼だ。
でも、買わなかった。
個人的に所有する余裕が無いので買えなかったと言う方が正しいかもしれない。
dziは、やはり高価な石だ。
今の時代、在庫を持つのも少し考えてしまう。
お客さまからリクエストがあれば探すようにしている。
私はたくさんdziを所有する財力はないが、出会う才能にはとても恵まれている。
貧乏が恨めしいと思う瞬間は多々あるが、だからこそ私の前に数々のご縁があるのだろうと最近思う。
やっぱ人間、欲かいちゃアカンって。。。(-。-)y-゜゜゜
なので今回も素敵なアンティークdziたちと出会えたが、どの子もお持ち帰りする予定はない。

dziを買わない私に、ニマが面白い話をしてくれた。
もう一度確認するが、彼は敬虔なチベット仏教徒だ。
幼い頃にダライ・ラマに頭を撫でてもらったことがあるそうだ。
子供だったけどダライ・ラマの並々ならぬ慈悲の深さを感じ、その温もりにとてもパワーを感じたという。
ブッダガヤで行われるカーラチャクラ法要には出来る限る駆けつけるという。
心の底からダライ・ラマ猊下をリスペクトし、チベット仏教徒として生きる事を小さく誇り大きな喜びにして生きている。
そしてチベタンアンティークのプロだ。
アンティークディーラーはたくさんいるが、チベット仏教徒以外のディーラーさんは、必ず私にこう聞く。

「仏教徒はdziに何を感じるの?」

数百万円も数千万円もするアンティークdziを扱う彼らでさえ、dziの持つ本当の深さはわからないようだ。
私は仏教的な思考をするが信徒ではないし、ましてやチベット仏教やカルチャーの真髄は日本で生まれて日本で育った私にはわからない。
しかし、プロのディーラーの彼らよりは理解の近いところにいるらしい。
私の顔はチベ式らしいのでそのせいかもしれないが、宗教観は精神性に違いをもたらすのかもしれない。
そんなディーラー達の中でニマは生粋のチベット人だ。
今でこそパスポートはネパール人だが、39歳の彼がカトマンズへ来たのは12歳の頃。
まる6日かけて山を下りたそうだ。
その苦しさは今でも夢でうなされるらしい。
そんな彼が言う。

すべての石にはマインドがあるよね。
行くべきところに行き、おさまるところにおさまるよね。
それは石がマインドをもっているから。
でも、dziは違うね。
dziにはマインドがない。
昔、山を下りたとき、ママもアンティークのdziを持っていた。
でも、今はママのdziはないよ。
人の心で持ったり手放したりする石だね。
欲しければ持つけど、また必要なら手放すのもdziじゃなくて人が決めるでしょ?
dziは昔からそうだよ。
だから僕はdziのディーラーでいられる。

なんか、深いね。
チベットの人は、本当は誰も手放したくなかったんじゃないかなって思う。
dziはクリーム色のカルセドニー系アゲートを人が手を加えて作る石だ。
初めから黒や茶色じゃないし模様も入ってない。
ニマが言うには、もうその時点で石のマインドはないそうだ。
でも、代わりにdziが持ったものは何だろう?
趣味人の趣向品ではないはずだし、決してお金の代わりでもないはずだ。
でも、人が生きる為に人の間を回る。
崇高な信仰の対象であるはずなのに、とても俗的な扱いで俗人の生活を支えることもある。
相反するのかもしれないけど、私はそこにとても「人が生きるということ」を感じる。
やはり仏教の石なんだと思う。

実物を見れば、それがアンティークかどうかの目利きはできる。
目利きができるからdziに出会える。
たくさん出会えは出会うほど、どこかにもやもやした違和感を感じてきた。
それがうまく言えないけど、腑に落ちどころがわかった気がする。
それと同時に「仏教徒はdziに何を感じるの?」という問いの深さもわかった気がする。
今回、現物をゲットすることはなかったが、それ以上のdziの深いところに触れることができた。
ありがとう、ニマ。

高価だから買いたがるセレブの嗜み気分の人たちを見ても、私はもう悲しんだりしない。
仏教を知りもせず効能だけを(それも後付けのどうでもいいご利益のない効能ね)それだけでdziを売る人・欲しがる人を見ても、私はもう軽蔑したりしない。
元々あったdziの代わりに新しいdziを身につけているチベットの人を見ても、私はもう憐れんだりしない。
どれも人のしていること。
dziのマインドではない。
人の世では、溢れるほどの常なことだ。
生きていればこそある様々な事象に過ぎない。

菩薩は、人々をその煩悩から道を開くという。
なのでその身はたくさんの装飾品で着飾られている。
装飾は煩悩の証だという。
如来は、薄衣一重のみ身にまとう。
何も飾らずとも悟った者の証だという。
私の仮説に過ぎないのだが、もしかしたらdziは菩薩の化身で、人の世を回って人の世の道理を煩悩レベルで諭しているのかもしれない。

ちょっと悟ったんじゃね?ワシ。。。(-。-)y-゜゜゜

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